みなさんこんにちは、ひでえぬです。
松島を訪れた際に、その絶景にとても感動したといわれています。
さて、
仙台に滞在中、ホテルの近くに「芭蕉の辻」をいう地名を見つけました。
伊達政宗は仙台のまちづくりにあたって、城の大手門から東西に延びる道と、それと直行する奥州街道を基準に進めたといわれており、この2つの道が交差するところが「芭蕉の辻」です。
札幌でいうと「テレビ塔」があるあたりでしょうか。(よくわからん例えだね)
現在では、青葉通りから一本入った細い道ですが、往時は金融や商業の中心として栄えたそうです。
そこで私は考えました。
「ここにも松尾芭蕉の足跡が残っているのか・・・」
「風流やねえ・・・(なんやそれ)」
ですが、「芭蕉の辻」の由来をWikipediaの上のリンクでたどってみると、
以下の諸説がある。
1.の虚無僧説が有力である[1][2]。芭蕉の樹説については井原西鶴の『一目玉鉾』でも記述がある[注釈 3][4]。
なお、松尾芭蕉とは関係がない。
(以上 Wikipediaより)
ええっ??
関係ないの??
あやうく大恥かくところだった。
きちんと調べると、結構思っていたのと違いますね。
ちなみに、
芭蕉が松島を訪れた際に読んだといわれる
松島や ああ松島や 松島や
も芭蕉の作ではないのでは?という説もあります。
歴史に関することは、あくまでも「その時点で正しい(と思われる)」ことであって、その後の研究や新事実が見つかることによって変わることはよくありますよね。
話は変わって、さっぽろテレビ塔の話が出ましたが、さっぽろの街づくりは、南北を流れていた「大友堀」(現在の創成川)と今の南一条通りを基準とする碁盤の目の道路を作ることとなりました。
交差するところに昭和32年に建てられたのが、さっぽろテレビ塔です。
で、この「大友堀」を作ったのが、大友亀太郎という人です。
・・・ということを、札幌に住んでいた小学4年生か5年生の時にこれを習ったのですが、この
亀太郎
というのが小学生には斬新だったらしく、教室が爆笑の渦になったのを覚えています。
(大友家の方ごめんなさい)
さらに私の勘違いですが、札幌の町割り、つまり「碁盤の目」の道路を計画したのも亀太郎さんだと最近まで思っていたのですが、上のリンクを見たら違う人でした。
昔の記憶もあてにならないですね。(もしかして、亀太郎に気を取られてちゃんと授業を聴いていなかっただけ?)
なんかとりとめのない話になりましたが、
明日はいよいよCFP資格審査試験の合格発表です。
では、また。